6月18日朝刊です
『ジャポニスムふたたび』
映す 透かす ゆらぎの美学 森谷明子
日本の表現には「映す」や「透かす」という美がある。日本人はあからさまな表現よりも、影や気配を好む傾向があるが、「映す」や「透かす」には、直接対象を見るのではない、いわば「ひと手間掛けた」風情がある。
たとえば平等院鳳凰堂や金閣寺、厳島神社などは、実際の建造物と水面の影の美を同時に楽しむ美といえるだろう。県内では昨年末にオープンした富士宮市の「富士山世界遺産センター」が、この「映す」の美をふんだんに応用した造りになっていて、入り口前のアプローチに巨大な水鏡があり、晴れた日には北斎の『富嶽三十六景 甲州三坂水面』さながらに、逆さ富士が見事に映し出される。
「透かす」に関しては、薄衣の下から別の生地が透けて見える風情を楽しむ「紗」の着物や、紅葉の枝越しに向こう側の風景が見える庭の配置や、御簾やすだれ越しに戸外を眺める面白みなど、手前と奥がオーバーラップする一種異空間的な「透かす」の技は、日本人の得意芸である。
前置きが長くなったが、この「映す」「透かす」の日本的風情を最も深く理解し作品に応用した画家はモネではなかったかと思う。モネの睡蓮には様々あるが、あたかも水鏡を覗き込むようにした視点で描かれた作品がある。水面には睡蓮が浮いているだけではなく、周辺の木々や空、雲など、水鏡に写し込まれた周りの風景が間接的に描かれており、手前と奥が重複し独特な世界観となっている。そこはかとなく揺れる水鏡の風情はまさに、日本の「映す」「透かす」の美を学んだ痕跡ではないだろうか。
モネの睡蓮の魅力は主役の睡蓮だけではなく、睡蓮を囲むようにして揺らぐ、水鏡に映り込んだ実体のない影にあると思う。見えるか見えないかのギリギリの揺らぎ。「映す」「透かす」の美である。