![]() 今月は、表現の自由の名のもとにあらゆる表現が氾濫する現代という時代に辟易する思いから書きました。 表現とは本来もっともっと神聖なものだったはず…ではないですか?私はそう思うのですが。
19世紀末のジャポニスムにより日本が世界に与えた影響は計り知れない。鮮やかな色彩、感動をあらわにした大胆な構図、抽象的表現、装飾性…。写実表現を中心に発展してきた西洋芸術は、約50年にわたるジャポニスムを経て、様々な表現を日本から学びとった。 「人間はもっと自由であっていい」。それは日本が西洋にもたらした最高の贈り物である。 しかし、19世紀末から今日に至るまで、いまだ世界に開示されていない日本的表現があるとしたら、それは表現そのものへの「畏れ」である。人間の吐き出した言葉が霊力を宿して具現化する「言霊」。あるいは人間が作り出したモノに命が宿る「形霊」。日本人は表現の自由を謳歌する一方で、不用意に表現することを慎み畏れた。 一枚の絵は、決してただの絵ではない。花の絵には蝶が止まり、襖に描かれた海は畳に満ちる。彫られた龍は水を求めて夜毎さまよい、人形には魂が、仏像には仏が宿る。だからこそ、畏れをもって表現活動を行う。 日本人が、森羅万象取り巻く世界のすべてを「八百万の神」とみなすことはよく知られているが、自らの語る言葉や作ったモノさえも神聖視し、畏れることは、海外ではほとんど知られていない。それは、華やかな19世紀末のジャポニスムの中で置き去りにされた、日本文化の礎石である。 「表現の自由」と「表現への畏れ」。この絶妙なバランスが、日本文化の美を支えている。 あらゆる表現がすでに出尽くしたかのようにも見受けられる21世紀の芸術表現において、表現そのものを神聖視する「表現への畏れ」という概念は、むしろ面白いのではないか。 「表現の自由」と「表現への畏れ」。それを伝えることが、最後に残された21世紀のジャポニスムではないかと私は考えている。
by akikomoriya
| 2021-04-20 23:44
| ジャポニスムふたたび
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