![]() 4月4日静岡新聞朝刊 「気」を線に込め伝統の美追及
西洋は目に見えるものを表現し、日本は目には見えないものを表現する。これは西洋の美と日本の美の、もっとも大きな違いである。 その「目に見えないもの」をあえて言葉にするとしたら、それは「気」ではないかと思う。これは宇宙に遍満する生命エネルギーと言うべきものである。どのような気が、どのように流れているかによって、作品の良し悪しが決まる。 この「気」を表現するための方法のひとつに「線」がある。つまり、「線」に「気」を込めるのである。水墨画はもちろん、尾形光琳や酒井抱一などの琳派でも、色の美しさや滲みの風合いだけでなく、「線」に「気」が通り、線が生きているからこそ、見る者を惹きつける。 しかしながら、こうした事柄を言葉で伝えることは難しい。目には見えないものを描くための技法なのだから、実際、説明のしようもない。おそらくは、師匠の描いている背中や気配などから、ただ見て学び、その弟子もまた見て学び、を繰り返し受け継がれてきたのだろう。 さらに、こうした日本の表現を、現在の日本の大学で育てていくことは難しい。何故ならば、芸大美大を受験する時に必要とされる技能は、毛筆による線の美しさではなく、西洋的な鉛筆デッサンによる立体表現の技能である。「目に見えるものを正確に捉える」ための西洋的な描法を、「絵画の基礎」として教え込まれた学生たちが、材料だけ和紙や墨や岩絵の具を使ったところで、この国に脈々と受け継がれてきた「目に見えないもの」への崇敬を、受け継ぐことが果たしてできるのだろうか。 薄っぺらな紙一枚の絵空事に、この宇宙に遍満する生命エネルギーの片鱗を、掬い取るようにしてとらえ表現する魔訶不思議。道のりは遠いけれど、そうした昔ながらの日本の表現を追求してみたいと思っている。
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by akikomoriya
| 2022-04-10 10:30
| ジャポニスムふたたび
![]() 『ジャポニスムふたたび』月曜日朝刊です。 「古典表現から享受する叡智」 言葉の役割を「情報伝達」のツールとしてのみ扱う風潮が増している。もしも言葉に情報伝達としての価値しか置かないのであれば、古典表現ほど無用なものはないだろう。実際、役に立たない古典文法を覚えるくらいなら、英単語をひとつでも多く覚えた方が有益だと思っている学生は多い。 しかし、これは大きな間違いで、感性が愚鈍化する現代において、日本の古典表現ほど、現代に役立つ叡智を与えてくれる学びは無い。 その叡智とは何かと言えば、ひとつは自然と対話する力である。 たとえば、「古池やかわず飛び込む水の音」。これを情報として受け取るならば、「古い池に蛙が飛び込んだ際に発生した音」という、あまりに無意味な情報になる。しかし、その言葉の響きを堪能できる素養があれば、自然が有する静寂や、情趣、自然との一体感などを、時空を超えて共有することが出来る。 現在の地球社会で最も欠落している能力、それは自然の風物との対話力ではないだろうか。日本の古典表現は、自然との対話という高次元の技を、日常の中で優しく伝授してくれる得難い存在である。 さらに、古典から享受できる叡智をもうひとつ上げるとしたら、それは「言霊」である。古典の中で紡がれる表現は、言霊を強く意識していた時代の響きであり、現在において消滅しつつある概念である。いにしえの人々は、美しく削ぎ落とされた純度の高い言葉の響きによって、物事を具現化させる技を駆使していた。古典を暗唱することでその感覚を現代に蘇らせることが出来る。 人と人との情報伝達だけならば、英語は確かに優れている。しかし、人間以外の存在、自然や目には見えないあらゆる事象と心を通わすためには、日本の古典表現ほど優れた言葉は無いように思う。 本来の日本語の持つ響きを、いつも心のどこかに置いて生活したい。 #
by akikomoriya
| 2022-02-22 23:21
| ジャポニスムふたたび
明日、2月1日から2か月間 清水区フェルケール博物館の1階ギャラリーで 森谷明子日本画展「風日祈の歌」を開催します。 サラサラと水の流れるフェルケールのイメージに合わせ 昨秋の亀山画廊とはまた少し趣向の異なる 展示となりました。 春待つ季節 フェルケールの水の中庭を眺めながら ぼ~っとするのもよいかと思います。 ぜひお出かけください。 入館料400円ですが DM1枚で2名様まで入場無料です。 必要な方はお送りします♬ #
by akikomoriya
| 2022-01-31 20:01
| 日本画
毎日毎日寒いです・・・冷えます・・・ 早く春が来ないかな・・・ 今月のジャポニスムふたたびはなんと80話になりまして 8年近く連載しておりますことに気付きました。 あらためて読んでくださる皆さまと、静岡新聞の編集の掛井さんと ずっと応援して下さっているユネスコの秋田さん・・・ 有難うございます<(_ _)> あと一年くらいは続けようと思っております。 引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。 ただ「見る」行為の尊さ
河の辺の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は 万葉集・巻一・56の歌である。 「つらつら椿」は語呂もよく、ふと口を突いて出る心地よさがある。まだ春浅き山野を歩けば、深い緑の茂みの中に、赤い藪椿が灯りのように見える。少しうつむき加減に咲く姿もなんとも可愛らしい。つい時を忘れ、つらつらと椿に見入ってしまう。 さて、「見れども飽かぬ」は今の言葉で言えば「見飽きない」ということで、万葉集の中では慣用句のように使われている。 富士山を讃える高橋虫麿の長歌にも「・・・駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも」とあり、富士山を仰ぎつつ「見ても見ても見飽きることがない」と感じる気持ちを、時代を超えて共感することができる。 前置きが長くなったが、日本には「見る」という文化がある。たとえば「花見」「月見」「雪見」といった具合に、ただ「見る」という行為を尊ぶ文化である。見たからといって、その先に何かがあるわけではない。ただ「見る」という行為が尊いのだ。 人は何かを見ている時、実は目の前にある風景だけではなく、様々な思いを巡らせている。過去の出来事や、誰かとの会話、あるいはこの先のことなど、何かを眺めながら、つらつらと思い巡らしている。 そして、「見る」という静寂の中で、人は己の思いを客観視し、あるいはリセットし、あるいは、見て見て見入るうちに、心が澄み清まって、花や月や雪からも、直観的に何らかを受けとることが出来る。 「ただ見る」という行為は、実は自分の心の状態を整理し、浄める効能がある。いにしえの人々は、この「見る」という行為を重んじた。 「見れども飽かぬ」。心を透明にし飽きることなく対象に見入る人でありたい。私の好きな万葉集の言葉である。
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by akikomoriya
| 2022-01-25 22:05
| ジャポニスムふたたび
3カ月ぶりの「みなさんのお作品」です♬
私なんかよりずっと意欲的な皆さん。 本当に勉強になります。 今回は秋の風物がたくさん! すすきの繊細な穂の動きをよくとらえておられます。 自然なうねり、自然な曲線というのが一番難しいです。 Hさまの描写力にはいつも頭が下がります。 緑の色を丁寧に使い分けて深みが出ました。 トンボも自然に描けましたね! グレー、緑、黄色、臙脂、ちょっとモダンな色遣いです✨ 今回は背景にこだわりました。 ふわっと柔らかい感じの背景に、ヒマワリの後姿が映えます。 速水御舟の桔梗にも後姿のものがありましたね。↓ お花の後姿、なんともりりしい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() #
by akikomoriya
| 2021-12-22 20:28
| SBS学苑 日本画教室
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