またバテてます

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新月明けの日曜日
いかがお過ごしでしたか?
私は数日前からの自律神経失調症の絶不調と
おまけに風邪が重なりで
とんでもない週末になってしまいました。

...

風邪の症状プラス
血圧の急低下に
瞳孔開きっぱなしの
眼球激痛の
リンパ腺腫れ上がる~ので
とりあえず呼吸するミイラ状態。


しかしながら、こんなことが
数年前までは一年の3分の1くらいあったので
それを思えば何のこれしきであります。

それに今は子ども達もいないので
無理して起きて送迎したり
お弁当作ったりもないからそれだけでも楽になった。

今までは
目が見えなくなってくると
本当に気持ちがふさぎ
昼も夜も続く痛みにどうやったら早く楽になるか
毎度絶望的な気持ちでしたが・・・


でも最近は
目が見えないと「今まで見えてくれて有難う」と
自然に言えるようになった。
呼吸が苦しいと
「今まで呼吸できて有難う」
と前よりは早く気持ちを切り替えられるようになった。

しんどくても
今この瞬間も
光り輝く御手の中にある
何となく
それが感じられるようになって前よりは楽な自分がいます。

明日は絵が描けるように
描けるといいな。
今こうして起きられてそれだけでもよかった。

今年一番の白花タンポポ
大好きな白花タンポポ・・・


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# by akikomoriya | 2018-03-19 15:13 | おしゃべり

明き清き直き 日本人の品格

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日本人は「品」という言葉に弱い。

たとえ富や名誉があろうとも、「あの人は品がない」と言われると、そのすべてが無に帰してしまうほどの価値が「品」という一語に秘められている。日本語を翻訳するにあたって、おそらく最も訳しにくいと思われる、その「品」とは果たして何であろう。

飛鳥天平の頃より、天皇から民へ命じられる文書を「宣命」といった。その中に繰り返し登場し、国民に求められてきた要素は、意外にも「富めよ増やせよ」といった物質的な問題ではなく、心の在り方としての「明き清き直き心」であった。

「古事記」において「清く明き心」は素戔嗚尊が高天原に入る為に厳しく問われた条件である。また「続日本紀」では、「明き清き直き」は、「下心もってへつらったり、欺いたりすることなく

等と具体的に示され、こうした誠実な生き方を、古代の人々がこのうえなく重んじていたことがわかる。おそらくは、これが日本人として求められる価値基準の最高位であり、後の「品」の基準に繋がったのではないかというのが持論である。

さて、この「明き清き直き」を具体的な事象に置き換えてみると、「明」は日月の光の様に陰りないもの、「清」は水の流れの様によどみなく、「直」は植物の様に素直なもの、である。「明き清き直き」が何であったか迷うとき、自然の中に身を置くことで、それを思い出すことができるというのが日本人のやり方である。

「品」とは単なる立ち居振る舞いや形や容姿をもって語るものではなく、内側からにじみ出るものを示している。その定義は依然として曖昧である。が、その人の前に立った時に、あたかも竹林をざわめかす一陣の風がよぎるような、また眩い一筋の光が差し込むような心持がするならば、それが日本人の品格、ということなのだろうと思う。




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# by akikomoriya | 2018-03-19 15:06 | ジャポニスムふたたび

春の暮方

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せり・なずな・ごぎょう・はこべら、ほとけのざ・すずな・すずしろ
・・・の「なずな」

春の七草っていうけれど
食べたことはなくて

...

そのかわり
葉の付け根を丁寧に引っ張り
すべての葉っぱが垂れ下がったところで
耳元で振ってみると・・・


仕掛けとしては「でんでん太鼓」と同じなんだけど
「プチプチ」「しゃらしゃら」という
ささやかな音がする。

「ぺんぺん草」ともいうけれど
私には
「ペンペン」ではなく
「プチプチ」「しゃらしゃら」が混ざって聞こえるんだけど。


春の暮方は
もやがかかって優しく甘い
少し前まで
あんなに寒かったのにね


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# by akikomoriya | 2018-03-14 21:20 | おしゃべり

花咲く木の下には

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春先の夕暮れ時
横から差し込む薄橙の明かりに照らされて
花の咲く木の下に佇むと
ふと我を忘れ
妖精に出くわしてしまう


もう一度・・・と思って
次の日
同じ時間に
同じ場所に行っても
もうそこには妖精はいない
そんな感覚が何度もある。


多分私は
花を描きたいのではなくて
その妖精の気配を
描き残しておきたいのだと思う。

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# by akikomoriya | 2018-03-14 21:18 | おしゃべり

花咲く木の下には

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咲き残った紅梅 一輪
なんだか間が悪そうに

春のほのかな夕明かり
花びら透ける...
一瞬の出来事

ああ
確かに確かに
花咲く木の下には
確かに妖精がおあします。


今日はこの子と目が合って
心にふわっと
またひとつ
春が来ました。

ではでは明日も一日
美しい世界はひとり一人の掌の中に!


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# by akikomoriya | 2018-03-14 21:14 | おしゃべり

遠い記憶

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遠い記憶を思い出すときは
ふっと一瞬
匂うようによぎる

逃してしまえばそれっきり

もうどこを探そうとも
見つからない

朝かと思って目が覚めて
ひっそりと深夜に
思い出せない匂い


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# by akikomoriya | 2018-03-14 21:12 | おしゃべり

南禅寺水路閣

数日前のこと
南禅寺の水路閣をぶらぶらしていたら
エグザイルのアキラさんが隣にいた。

そうこうするうちに...
何人かの人が
せわしなく握手を求めてきて
アキラさんは笑顔で応じている。


あらま、私もしてもらおうかしら
と思ったのだけど
同行していた娘が
「せっかくのオフを楽しんでいるんだから
邪魔したら悪いよね」
と言う。

・・・確かに。

娘の物言いは
いつも、そよそよとお姫様のよう
少し控えめに
冷静で客観的
そしてやさしい・・・

サークルのお友達には
「いつも天使のようであれ、とお母さんに言われて育ったの?」
と笑われるらしい。

別にそのように言い聞かせて育てたつもりはないけれど
私は娘と一緒にいると
多分世界で一番
落ち着く。

ただ優しい、というのではなくて
あたたかく
寛容であるからだと思う。

この子の親でいられて
本当に幸せだなと思います。

ついでですが
アキラさんが磐田東高校に通っていたころ
私たちはそのすぐ裏にある借家に住んでいた。
もしかすると
磐田のどこかでも
すれ違っていたのかも・・・
袖すり合うも他生の縁、ていいますから・・・

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# by akikomoriya | 2018-03-05 23:08 | おしゃべり

一生おなじ歌を 歌いつづけることは

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嵐とともに三月がやってきて
ああ、春なんだ
ついに春が来たんだなと
しみじみ思う。

...

25日の誕生日に
薄紫のヒヤシンスを贈っていただいて
まだほのかに香っております。
お祝いしてくださった皆様
あらためて有難うございます( *´艸`)

どれほど歳を重ねても
変わらない自分がいて
しつこく同じものを追い求める自分がいて
だからなのか
私はこの詩が好きです。
FBでももう何度も載せたので
またか、と思われるかもしれませんが・・・

岸田衿子の
『一生おなじ歌を 歌いつづけるのは』

♪~♪~♪

一生おなじ歌を 歌いつづけるのは
だいじなことです むずかしいことです
あの季節がくるたびに
おなじ歌しか歌わない 鳥のように

♪~♪~♪

ではでは皆様
今宵は満月
午後からも素敵なお時間をお過ごしください♪


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# by akikomoriya | 2018-03-03 21:14 | おしゃべり

幸ハウス

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今日は「幸ハウス」という
癌になった方やそのご家族を支援する施設に行ってきました。
サポートする側の学びとして
「傾聴」のワークショップがあり
今日はあらためて「聞く」という行為について...
じっくり考えることができました。


例えばチョコレートケーキを乗せたお盆が
うっかりひっくり返るとする。
Aさんはひどく落胆し場合によっては相手を責めるかもしれない。
Bさんは寛容にとらえてまあまあとその場をなだめる。

表面だけ見るとBさんの方が好ましいように思える。

でも
その内面を見たとき
Aさんはケーキをすごく楽しみにしていて
Bさんはそれほどケーキが好きでなかったとする。

そうなると
大切なのは怒っているか寛容であるかの表面ではなく
その人の心が何を求めているか、だという。

つまり
「チョコケーキ、本当に大好きだったんだね」
「それで辛かったんだね」
を共有することで
Aさんは癒されてゆく。

「聞く」ということは
ただ解決策を見つけることではなく
非難したり
常識で片づけたり
相手を教育することでもなく
「あ~わかるわかる、私もそう」と自分の物語を語り始めたり
むやみに共感するものでもない。
目も合わせず他のことをしながら
話をさっさと切り上げさせたり
話題をちゃかしたりはもちろん論外。


大切なことは
その奥にある「満たされていない気持ちや感情」
に寄り添うこと。
それを「話し手」と「聞き手」が共有すること・・・
と、これらを実際ワークショップで体験するものだった。


ワークショップをしながら
最近私は落胆したり不快に思うことが増えたなと思った。
それは寛容でないからではなく
相手が大切な人であったり、大切なものであるからこそ
腹が立つんだと思った。
そして
その気持ちを共有されることなく
「小さなこと」として軽んじられるから
最近
何となく寂しく、漠然と落ち着かないんだなと思った。



「聞く」って本当に大切なこと。
人間にしかできない技だなと思う。
自我を捨てて心から相手と同化し
相手の話を聞く。
それって
まさに神の姿なのかもしれない。


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# by akikomoriya | 2018-02-16 09:16 | おしゃべり

日本の僧侶に憧れたゴッホ

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12日月曜日 静岡新聞朝刊
ジャポニスムふたたび

日本の僧侶に憧れたゴッホ             森谷明子



 幾つかあるゴッホの自画像の中でとりわけ奇妙なものといえば、頭髪を剃った釣り目のゴッホ、タイトルは「ボンズ(坊主)」。ゴッホは熱烈な日本文化の愛好家であり、いつの日か日本に渡り、日本の「お坊さん」になりたいとさえ言っていた。
 当時出回っていた浮世絵や日本に関する出版物等を通して、ゴッホは自分なりの「日本」に対する洞察を深めていたのだが、彼は日本人を「紛れもなく賢者であり哲学者で知者である人物」「自身が花であるかのように自然の中に生きる」と讃えている。その理想の典型として「ボンズ(坊主)」をイメージしていたのであろう。
 このイメージを「妄想」と一笑することは容易いが、たとえば、桜を追い求めた西行などは、賢者であり哲学者であり、花のように生きた人だと言えよう。それはまた良寛しかり、兼好もまたしかり、である。
 さらにゴッホは、日本の芸術家たちがお互いに作品を交換したり助け合っている、とも言っている。残念ながら絵画の世界でそのような習慣があったとは確認できないのだが、少なくとも和歌俳諧の世界では、「歌会」や「連歌」など、まさに互いの作品を鑑賞しあい、磨き合う文化が存在していた。果たしてゴッホがこういう和歌俳諧の世界を知っていたかは今となっては知る由もないのだが。
 つまるところゴッホが憧れた日本像とは「人と自然、人と人」が共に理解しあい尊重しあって生きる世界であろう。イメージの中で膨らみすぎた日本への憧憬は、ゴーギャンとの友情に過度な期待を抱かせ、二人の共同生活の破綻の一因ともなっていくのであるが、ゴッホが夢見た「自然とともに、人々とともに」生きる「ボンズ」な世界は、決してありもしない妄想ではなく、かつての日本に確かに存在していた世界であると私は思っている。

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# by akikomoriya | 2018-02-13 22:02 | ジャポニスムふたたび