![]() リニア問題に関して 前回に続きもう一冊ご紹介します。 こちらも4月10日に出版されたばかり。 南アルプスの自然やエコパークの立場からの内容になります。 大井川流域の62万人の水問題として認識されていたリニア問題ですが 昨年7月になって、JRが地下水位が350メートル以上も下がると突如発表。 大井川奔流の水をポンプで戻せばそれで済む というわけではなく 南アルプス全体の自然が破壊する恐れが出てきています。 また 昨年10月には、都内の調布市でリニアトンネルにより住宅街が陥没。 6月には静岡市内で、リニアの工事用ヤードの崩落事故と 脆弱な地盤と年間4ミリも隆起し続ける 南アルプスの特殊な地盤に対し 危機感が強まっています。 奔流の水だけでなく 周辺環境の枯渇と、山そのものの崩落。 またトンネル工事で掘った土(残土)は 絶滅危惧種の蝶に関わる植生がある「燕沢」に 高さ60M、幅300M、長さ700Mにわたり積み上げられる予定。 さらに原発再稼働を前提としたリニア計画であります。 計画が具体化するにつけ 想像を絶する問題が浮き彫りになっております・・・ 地球崩壊か刻々と迫る現代 あらたな価値観「パラダイムシフト」を進めなければならない時が来ています。 今回の選挙は 静岡県民ひとり一人に 時代を変えるまたとない機会が与えられていると思います。 #
by akikomoriya
| 2021-06-04 17:39
| 平和な世界を求めて
知人より興味深い本を頂きました。 地下水位が350メートル以上下がるというと 南アルプス・ユネスコエコパークの登録が取り消される可能性がかなり高くなってきます。 さらには リニアが相当な電力を浪費するため 原発ありきを前提とした計画であることは見逃せない。 3.11以降、社会の流れは大きく変わりつつあり また、変わらなければ人類は存続できない ギリギリのところにおります。 目先の経済を優先することで 電力問題、原発問題、環境問題は避けられず また崩落の大惨事も十分あり得る もっとも複雑な地質であります。 日本は八百万の神々によって守られる国 特に山の神の力によって 今日まで栄えてきた国です。 日本の神々は、この工事をどう思われるか・・・
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by akikomoriya
| 2021-06-04 17:38
| 平和な世界を求めて
早くも梅雨入りです。 皆さまいかがお過ごしでしょうか? 今年は季節のめぐりが早いですね。 月曜日朝刊に掲載されました「ジャポニスムふたたび」72話です。 毎度の食事の「いただきます」の際に、ちょっと一呼吸。 少し意識することで、日本人の感覚を取り戻すことが出来ますね! ![]() 日本語の「たべる」の語源は「賜る」である。「たべる」「賜る」「いただく」は、いずれも尊い存在から与えられることを意味している。 一方で、英語の「eat」は、「噛む」ことを表す語から転じている。「eat」に近い日本語は、「たべる」ではなく「くう」である。 本来、日本人にとって「たべる」という行為は、八百万の神々の命を賜る神事であった。「いただきます」を意識して食事することは、消え残る日本古来の世界観を日常の中で体感する貴重な機会となる。 まず、テレビを見ながら儀式をするのでは礼に反するため、テレビを消し静寂の中で神(食べ物)と向き合い、呼吸を整え「いただきます」と手を合わせる。 また、自分と神の間に箸を置く。箸は「結界」である。 次に、箸の結界を解く。箸は神器であるため心して扱う。右手で上から箸をとり、左手で下からそれを受け、さらに右手を滑らせ持ち替える。 そして神を乗せた器を左手に取り、箸で丁寧に賜り、口に運ぶ。食べることで神の命を受け継ぎ、ついに神と人はひとつになる。 さらには天地の恩恵と人々の労に感謝し、自分の命と世界とのつながりに思いを馳せながらいただき、最後にふたたび箸を箸置きに納め、合掌とともに神事を終える。 毎度の食事とは言わずとも時間に余裕のある時に「いただきます」の意味を考えながら、丁寧に箸の結界を解き、神と人との一体化を感じながらゆっくりと食事をいただくならば、それが日本の心を日常に蘇らせる、ひとつのきっかけになると思う。 欧米では「いただきます」と食べ物に手を合わせる習慣が無い。英訳しにくい日本語のひとつである「いただきます」の心を、昨今の日本食ブームに乗じて海外に伝えられたらと思う。
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by akikomoriya
| 2021-05-18 22:14
| ジャポニスムふたたび
![]() 今月は、表現の自由の名のもとにあらゆる表現が氾濫する現代という時代に辟易する思いから書きました。 表現とは本来もっともっと神聖なものだったはず…ではないですか?私はそう思うのですが。
19世紀末のジャポニスムにより日本が世界に与えた影響は計り知れない。鮮やかな色彩、感動をあらわにした大胆な構図、抽象的表現、装飾性…。写実表現を中心に発展してきた西洋芸術は、約50年にわたるジャポニスムを経て、様々な表現を日本から学びとった。 「人間はもっと自由であっていい」。それは日本が西洋にもたらした最高の贈り物である。 しかし、19世紀末から今日に至るまで、いまだ世界に開示されていない日本的表現があるとしたら、それは表現そのものへの「畏れ」である。人間の吐き出した言葉が霊力を宿して具現化する「言霊」。あるいは人間が作り出したモノに命が宿る「形霊」。日本人は表現の自由を謳歌する一方で、不用意に表現することを慎み畏れた。 一枚の絵は、決してただの絵ではない。花の絵には蝶が止まり、襖に描かれた海は畳に満ちる。彫られた龍は水を求めて夜毎さまよい、人形には魂が、仏像には仏が宿る。だからこそ、畏れをもって表現活動を行う。 日本人が、森羅万象取り巻く世界のすべてを「八百万の神」とみなすことはよく知られているが、自らの語る言葉や作ったモノさえも神聖視し、畏れることは、海外ではほとんど知られていない。それは、華やかな19世紀末のジャポニスムの中で置き去りにされた、日本文化の礎石である。 「表現の自由」と「表現への畏れ」。この絶妙なバランスが、日本文化の美を支えている。 あらゆる表現がすでに出尽くしたかのようにも見受けられる21世紀の芸術表現において、表現そのものを神聖視する「表現への畏れ」という概念は、むしろ面白いのではないか。 「表現の自由」と「表現への畏れ」。それを伝えることが、最後に残された21世紀のジャポニスムではないかと私は考えている。 #
by akikomoriya
| 2021-04-20 23:44
| ジャポニスムふたたび
![]() 「その後体調はいかがですか?」「最近お仕事はどうですか?」等の気づかいに対し、多くの日本人はまずは「お陰様で…」と答える。 「お陰様」とは、なんらかの恩恵を受けているという感謝の言葉であるが、その「お陰様」が一体誰のことなのかは、実はよくわかっていない。 「陰」である以上、目に触れ耳に聞こえるはっきりした存在ではなさそうだ。しいて言えばご先祖であったり、あるいは神仏であるかもしれない。しかし、そう深く考えることもなければ問われることもないのが「お陰様」である。 ところで、アイヌでは、すべての人に専属の「憑き神(つきがみ)」がついていると考えられている。誰もが生まれてから死ぬまで「憑き神」に守られながらともに生きる。いつも一緒だから自分の憑き神にだけは嘘を付けないことになる。また仕事がうまくいっても「憑き神」と共同で事を成したと考える。 日本人の「お陰様」は、このアイヌ文化の「憑き神」に由来するのではないかというのが筆者の持論であるがどうだろう。 逆境に立たされる時も、まずは「お陰様」とともにいると思えるならば、多少なりとも明るく感じられる。あるいは追い風に乗る時にも、天狗にならずに平常心でいられる。 「神、共にいまして、行く道を守り」はキリスト教聖歌の一節だが、守護してくれる存在を想定して信じることは、人を安心立命の道へと誘い、どの宗教にも共通する基本事項である。日本ではこうした信仰の形が、信じるか否かを問う以前に、生活文化として沁みついている あえて何かを信じなくても、日本人にはいつも何者かに守られているという思考が日常の中に生きている。それが当たり前のように継承される日本とは、実は本当に有り難い、まこと「お陰様」の国なのである。 #
by akikomoriya
| 2021-03-22 09:01
| ジャポニスムふたたび
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