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ジャポニスムふたたび74話

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暑くなりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか?

7月のお盆は終わってしまいましたが8月の方向けに、お盆のお話です♪


「ジャポニスムふたた74話~先祖も自然も繋がる世界」


お盆が近付き、お墓の掃除やお仏壇のお供え物の準備に忙しくなる頃である。

子どもの頃は、牛や馬を作ったり、親戚が集まったりで楽しみなお盆であったが、年を取るにつれ、「ああ、またお墓の掃除に行かないと」と、ついせわしなく思う気持ちも否めない。

お盆は正月と並び、家族や親せきが集まる二大行事のうちのひとつである。そもそもどうしてこの暑い時期に先祖供養なのだろう。

もともとお盆は、仏教行事ではなく、日本古来の風習であった。115日の満月(小正月)と715日の満月のお祭りに、先祖供養を行っていたことに由来するという。同様にお彼岸も、春分と秋分の日に行われていたお祭りに由来している。

古来日本では、太陽の運行や月の満ち欠けとともに日々の生活を営んでいた。

巡る季節の節目節目に、先祖とともに祝い、祈り、交流を深める。そうした古くからの世界観が仏教思想と相まり、お盆やお彼岸として現代にまで受け継がれている。

「繋がっている」という感覚は、生きていくうえでの強みとなる。

「人と人」とはもとより、「人と自然」「人と霊」との繋がりを、春夏秋冬の区切りのよいめでたき日に明らかにする。それは強く生きていくための大切な生活習慣である。折々にその繋がりを深めておくことで、思いがけない災難や日々の苦悩を超えていく力を養うことができる。

お盆には虫を殺してはいけないと、昔の人はよく言った。コオロギやバッタになって先祖が帰ってくるからだ。

虫も人も、日も月も、そして先祖も、すべてがまあるく繋がる世界。日本はやはり丸い国、輪の国、和の国である。

今年はそういう大らかな気持ちで、有り難く、お墓の掃除をさせて頂こうと思う。

 


# by akikomoriya | 2021-07-19 21:50 | ジャポニスムふたたび

ジャポニスムふたたび73話

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月曜日朝刊『ジャポニスムふたたび』
今回は地域学応援の気持ちを込めて、浜松の銅鐸について書いてみました。久能寺経、建穂寺の円空仏、磐田市の古墳群、遠江駿河万葉歌など、県内には歴史文化に関するお宝がいっぱい!日本文化を知ることは、自分が毎日暮らしている地元から始まると私は思います。

鏡にあらがい鐸祀った人々

全国津々浦々の神社の多くには、「鏡」が祀られている。「卑弥呼の鏡」に代表されるように、弥生時代以降今日に至るまで、日本人は「鏡」をご神宝として尊んできた。しかし、「鏡」が流布する以前の日本列島で、「鏡」だけでなく「鐸(さなき)」というものを尊んでいた時代があった。

「鐸」とは大型の鈴、いわゆる「銅鐸」である。

銅鐸は、近畿地方や出雲地方をはじめ、全国で約500個も出土している。一方で、古事記、日本書紀といった大和朝廷の正史には決して記されることはない、弥生時代の謎多き遺物なのだ。

金色に輝く銅製で、打てば甲高い音が響く。人々は巨大な鈴の輝きと音色に神聖さを感じていたのだろう。また、農作業をする人やトンボやイノシシ、鹿なども刻まれた図柄は、弥生時代の美術品と言っても過言ではない。

しかし、「鐸」は、「鏡」を祀る中央政権の勢力に追われ消滅したというのが一般的な説である。オセロのコマのように日本列島の上から次々と「鐸」が消滅する中で、最後まで「鐸」を祀っていた地域のひとつが、現在の浜松市である。天竜浜名湖鉄道沿線ではこうした「鐸」が点々と出土している。

佐鳴湖の「さなる」の語源が「さなき」であることは想像に難くない。穏やかな浜名湖の周辺に、中央政権に反する人々が蟠踞していたと考えるのは興味深い。

穏やかな人柄で知られる静岡県人が、中央政権にあらがった歴史を持つとは意外な気もするが、そうまでして時代の流れにあらがった理由は、今となっては知る由もない。

日本の歴史にはまだまだ分からないことが山ほどある。過去の謎を解くことは未来を拓く知恵ともなる。東西文化が交差し、富士山という国内最大の霊山を有する静岡県は、まさに歴史ミステリーの宝庫である。


# by akikomoriya | 2021-06-23 23:10 | ジャポニスムふたたび

ジャポニスムふたたび72話

早くも梅雨入りです。

皆さまいかがお過ごしでしょうか?

今年は季節のめぐりが早いですね。

月曜日朝刊に掲載されました「ジャポニスムふたたび」72話です。

毎度の食事の「いただきます」の際に、ちょっと一呼吸。

少し意識することで、日本人の感覚を取り戻すことが出来ますね!


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『神々の命賜る「食べる」儀式』


日本語の「たべる」の語源は「賜る」である。「たべる」「賜る」「いただく」は、いずれも尊い存在から与えられることを意味している。

一方で、英語の「eat」は、「噛む」ことを表す語から転じている。「eat」に近い日本語は、「たべる」ではなく「くう」である。

本来、日本人にとって「たべる」という行為は、八百万の神々の命を賜る神事であった。「いただきます」を意識して食事することは、消え残る日本古来の世界観を日常の中で体感する貴重な機会となる。

まず、テレビを見ながら儀式をするのでは礼に反するため、テレビを消し静寂の中で神(食べ物)と向き合い、呼吸を整え「いただきます」と手を合わせる。

また、自分と神の間に箸を置く。箸は「結界」である。

次に、箸の結界を解く。箸は神器であるため心して扱う。右手で上から箸をとり、左手で下からそれを受け、さらに右手を滑らせ持ち替える。

そして神を乗せた器を左手に取り、箸で丁寧に賜り、口に運ぶ。食べることで神の命を受け継ぎ、ついに神と人はひとつになる。

さらには天地の恩恵と人々の労に感謝し、自分の命と世界とのつながりに思いを馳せながらいただき、最後にふたたび箸を箸置きに納め、合掌とともに神事を終える。

毎度の食事とは言わずとも時間に余裕のある時に「いただきます」の意味を考えながら、丁寧に箸の結界を解き、神と人との一体化を感じながらゆっくりと食事をいただくならば、それが日本の心を日常に蘇らせる、ひとつのきっかけになると思う。

欧米では「いただきます」と食べ物に手を合わせる習慣が無い。英訳しにくい日本語のひとつである「いただきます」の心を、昨今の日本食ブームに乗じて海外に伝えられたらと思う。


# by akikomoriya | 2021-05-18 22:14 | ジャポニスムふたたび

ジャポニスムふたたび71話『美を支える自由と畏れ』

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ジャポニスムふたたびも今月でついに5周年です。静岡新聞と応援して下さった皆様に心より感謝申し上げます!

今月は、表現の自由の名のもとにあらゆる表現が氾濫する現代という時代に辟易する思いから書きました。

表現とは本来もっともっと神聖なものだったはず…ではないですか?私はそう思うのですが。
美を支える 自由と畏れ  

19世紀末のジャポニスムにより日本が世界に与えた影響は計り知れない。鮮やかな色彩、感動をあらわにした大胆な構図、抽象的表現、装飾性…。写実表現を中心に発展してきた西洋芸術は、約50年にわたるジャポニスムを経て、様々な表現を日本から学びとった。

「人間はもっと自由であっていい」。それは日本が西洋にもたらした最高の贈り物である。

しかし、19世紀末から今日に至るまで、いまだ世界に開示されていない日本的表現があるとしたら、それは表現そのものへの「畏れ」である。人間の吐き出した言葉が霊力を宿して具現化する「言霊」。あるいは人間が作り出したモノに命が宿る「形霊」。日本人は表現の自由を謳歌する一方で、不用意に表現することを慎み畏れた。

一枚の絵は、決してただの絵ではない。花の絵には蝶が止まり、襖に描かれた海は畳に満ちる。彫られた龍は水を求めて夜毎さまよい、人形には魂が、仏像には仏が宿る。だからこそ、畏れをもって表現活動を行う。

日本人が、森羅万象取り巻く世界のすべてを「八百万の神」とみなすことはよく知られているが、自らの語る言葉や作ったモノさえも神聖視し、畏れることは、海外ではほとんど知られていない。それは、華やかな19世紀末のジャポニスムの中で置き去りにされた、日本文化の礎石である。

「表現の自由」と「表現への畏れ」。この絶妙なバランスが、日本文化の美を支えている。

あらゆる表現がすでに出尽くしたかのようにも見受けられる21世紀の芸術表現において、表現そのものを神聖視する「表現への畏れ」という概念は、むしろ面白いのではないか。

「表現の自由」と「表現への畏れ」。それを伝えることが、最後に残された21世紀のジャポニスムではないかと私は考えている。

 


# by akikomoriya | 2021-04-20 23:44 | ジャポニスムふたたび

ジャポニスムふたたび「守られているお陰様の国」


一気に花が咲きはじめ
スケッチが全然間に合っていません。
毎年この時期は忙しい・・・
日本は春に新年度が始まる。
4月スタートという習慣は
割と最近のことらしいけれど、
自然世界とともに新年度がが始まることは
本当に有り難く、嬉しいこと!
お陰様の恩恵とともに、また新しいスタートを切ろう!

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「その後体調はいかがですか?」「最近お仕事はどうですか?」等の気づかいに対し、多くの日本人はまずは「お陰様で…」と答える。

「お陰様」とは、なんらかの恩恵を受けているという感謝の言葉であるが、その「お陰様」が一体誰のことなのかは、実はよくわかっていない。

「陰」である以上、目に触れ耳に聞こえるはっきりした存在ではなさそうだ。しいて言えばご先祖であったり、あるいは神仏であるかもしれない。しかし、そう深く考えることもなければ問われることもないのが「お陰様」である。

ところで、アイヌでは、すべての人に専属の「憑き神(つきがみ)」がついていると考えられている。誰もが生まれてから死ぬまで「憑き神」に守られながらともに生きる。いつも一緒だから自分の憑き神にだけは嘘を付けないことになる。また仕事がうまくいっても「憑き神」と共同で事を成したと考える。

日本人の「お陰様」は、このアイヌ文化の「憑き神」に由来するのではないかというのが筆者の持論であるがどうだろう。

逆境に立たされる時も、まずは「お陰様」とともにいると思えるならば、多少なりとも明るく感じられる。あるいは追い風に乗る時にも、天狗にならずに平常心でいられる。

「神、共にいまして、行く道を守り」はキリスト教聖歌の一節だが、守護してくれる存在を想定して信じることは、人を安心立命の道へと誘い、どの宗教にも共通する基本事項である。日本ではこうした信仰の形が、信じるか否かを問う以前に、生活文化として沁みついている

あえて何かを信じなくても、日本人にはいつも何者かに守られているという思考が日常の中に生きている。それが当たり前のように継承される日本とは、実は本当に有り難い、まこと「お陰様」の国なのである。


# by akikomoriya | 2021-03-22 09:01 | ジャポニスムふたたび